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コミュかる・こぼれ話

「コミュかる」は、「コミュニケーション」と「カルチャー」を用いた造語で、2012年に創刊した杉並区の文化・芸術情報紙です(年4回発行)。区内での公演・チケット情報や文化人のインタビューをご紹介しています。
本コーナーでは紙面には掲載しきれなかった写真や「こぼれ話」を掲載しています。

作詞家:森 浩美さん

2025年3月21日発行「コミュかるVOL.70」

Q1:どのようなお子さんだったのでしょう。

めちゃくちゃおばあちゃん子で、おばあちゃんがいないと、幼稚園にも行けないくらいのおばあちゃん子だったらしいです。
小学生の頃は優等生タイプだったかな。学級委員をやって、勉強もできた(笑)。特に国語は得意で、作文や読書感想文はいつも賞をもらった。感想文は小学4年生から高校3年生まで芥川龍之介の『杜子春(とししゆん)』という同じ作品でずっと書いて、賞をもらい続けた。子どもながらにどこを突けば先生にウケけるか分かってた。で、中学、高校ともなれば、文章的なテクニックも身につくしね。多分、小さい頃、叔父叔母も含めて11人の大家族で、大人に囲まれて生活していたせいか、自然に大人の顔色を見て、どう振る舞うことが大事かってことが身についたからだと思う。ま、そういうイヤなガキだった(笑)。

Q2:中学でギターを始められて、当時から作詞をされていたそうですね。

フォークソングブームで、誰もがギターを手にした時代。ま、モテたかっただけなんだけど(笑)。僕も親友の二人とバンド組んで、アリスのコピーをやったりした。そのうちオリジナルを作ろうということになって、文章を書くのが得意だった僕が詞を担当。まあ、中学生が知ったかぶって書いていた詞だし、今にして思えば読むに耐えない詞だったはず(笑)。でも、そんな経験があったせいで、後に作詞家になろうとしたとき、やれそうな気がしたんだろうね(笑)。

Q3:10代でアメリカへ留学されたそうですが。

あ、遊学ね(笑)。
高校2年生の時、ワシントン州の高校生のレスリング代表チームが群馬に来たんだよね。で、同い年の子をホームステイで受け入れた。そのとき、ふと思った。「コイツは海を渡って日本に来ているのに、なんで俺は日本を出たことがないんだ?」と。僕らの世代は『ポパイ』や『ホット・ドッグ』を愛読し、西海岸文化に憧れてたこともあって、無性にLAに行ってみたくなってね。親からは「大学に受かったら行っていい」と言われたんだけど、それが受からなくてね。母は浪人してでも大学に行ってほしかったみたいだけど、受験勉強嫌いだし、予備校に行っても伸びるタイプじゃないと自分で分かってた。なので、「大学に行かせたつもりで、そのお金で短くてもいいからアメリカに行かせてくれ、10代じゃないと意味がない」と屁理屈捏ねて説得。ま、言い出したら聞かない子だと分かってたから、結局、母が折れてくれた。 でも、やっぱり行ってよかった。あれが人生の中で一番ゆったり時間が流れてたなあ。休みの日なんか、サンタモニカビーチで寝っ転がって、ウエストウッドでランチして、夜はハリウッドで映画見て、そんなふうに朝起きてから決めればよかった。だからかな、バチが当たった。仕事をするようになってから、ずっとずっと先のスケジュールに追われる生活だもの。たぶんLAで一生分の「ゆったり」を使い切った(笑)。

Q4:放送作家になられたきっかけを教えてください。

実は、叔父のツテがあって、高校生の頃から、ラジオ局やテレビ局にちょくちょく遊びに行ってた。で、帰国後、あちらこちらに挨拶に行ったら、ある番組制作会社のプロデューサーから、「将来、放送局や広告代理店を目指す子たちが集まるグループがあるんだけど、君も来る?」みたいに誘われてね。で、ズルズルと仲間に加わり、番組企画書、CM企画書を書いたりした。ま、プロの真似事だけどね。
で、その中に脚本家志望のやつがいて、「そんなに簡単には若造にドラマを書かせてくれないだろうから、まず放送作家になる。で、放送作家の奥山侊伸さんに弟子入りしたいんだ。森、付き添いで一緒に来てくれ」と頼まれて、赤坂の喫茶店にノコノコくっついて行った。
で、ひとしきり弟子入りの話が終わった後、ふと奥山さんと目が合ってね。「お前も書きたいのか」って聞かれた。僕は付き添いだし、弟子入りする気はなかったんだけど、偉い先生だし、どうしたものかと考えた挙句「ええ、まぁ」と。「ええ、まぁじゃねーだろ」と叱られたけど、「じゃあ、明日から来い」と言われ、そのまま弟子入り(笑)。後々、奥山さんには「世界一失礼な弟子入りだったな」と言われることに。ただ運がいいんでしょうかね、結果的に、奥山師匠はすごくいい人で、色々と面倒見てもらった。残念ながら2年前に亡くなりました。最期にひと目会いたかったなあ。

Q5:作詞家にはどのようにしてなられたのですか?また苦労はありましたか?

師匠には、僕が入った時、すでに兄弟子が20人くらいいて、その中に、あの秋元康さんがいた。秋元さんが先に作詞家として売れた。僕はその頃、放送作家を2年ほどやってみた結果、向いてないなと思い始めてて、秋元さんの成功事例を間近に見て、「この手があるな」と思った。
師匠に反対されることなく、むしろ応援されるように、23歳のときに放送作家を辞めて作詞を始めた。このときは3年やって売れなかったらあきらめようという決意でね。ただ2年経ってもオリコン30位ぐらいまではいくんだけど、なかなかベストテンには届かない。あれ、作詞家転向は失敗かなと弱気になってたとき、偶然、ある集まりに誘われた。みんな一般企業の会社員で、経済の話とかしてたんだよね。そのとき、「なんでこいつらの話が理解できないんだろ、オレってバカなの?」と、世の中のことを知らない自分にショックを受けた。それから世の中のこともちゃんと見ないとダメなんだと反省して、新聞も政治経済面から三面記事、広告まで隅から隅まで読んだ。それまでは、スポーツ欄とラテ欄くらいしか読まなかったのに(笑)。加えて、一紙に限らず何紙も読んだ。テレビのニュース番組も雑誌も。それで分かったことは、いかに自分が視野の狭い中で詞を書いていたか、経験のない若造が独りよがりの分かったふうな詞を書いていたかということ。
で、謙虚になって、向き合い方が変わった瞬間、やってくるんだよね。ヒット曲が。その直後、荻野目洋子ちゃんに書いた『Dance Beatは夜明けまで』が4位になって、いわゆる売れっ子作詞家としての入り口に立てた。

Q6:作詞するときのポイントなどあればお教えください。

作詞家は詩人と違って、あくまで大衆に受けなければ、つまりヒットさせなければ職業作家として意味がないと思ってる。だから、世の中に漂う雰囲気を織り込むとか、内容に矛盾がないようにするだとかは勿論のこととして、一番気をつけているのは、メロディーを壊さずに言葉を載せて、気持ちよく歌えるように仕上げること。
僕らの世代の作曲家は、洋楽を聴いて育ってきているから、洋楽のメロディーやリズム感が染みついている。だから、そうした作曲家が作ったメロディに英語っぽく日本語を載せる必要がある。どうしたらそうできるのか考えた結果、撥音便を多用して、なるべくしゃべり言葉で書くこと。すると、グルーブ感を損なうことなく、つまり、もたつきがなくなり「曲が走る」んだよね。ま、感覚的なことなので、説明するのは難しいんだけど。とにかく、曲が持っている勢いを壊すことなく、詞を載せるから、僕は作曲家から評判がいい(笑)。

Q7:SMAPに多くの作品を提供していますが、何か思い出深いエピソードはありますか?

『SHAKE』は、お風呂に入りながら30分で作った。実は一度、別の詞を書き上げていたんだけど、プロデューサーの反応が「あれでもいいんだけど」とイマイチだった。で、電話の雑談の中で、プロデューサーが「山下達郎さんの『DOWN TOWN』みたいなイメージがいいかな」と言い始めてね。「じゃあ、そっちの方向で考えてみる」と電話を切った後、風呂に入って湯船に浸かった途端、頭の中にふぁーっと渋谷のスクランブル交差点が浮かんできてね。行き交う恋人たち、ティッシュを配る人、ネオンボード、渋滞とか。それをメロディーに合わせて歌ってみたらできてしまった。もう慌てて風呂から上がって、びしょびしょのままワープロを打って、そのままスタジオにFAXした。すぐにプロデューサーから電話があって「これでいく」ってOKが出た(笑)。実はパッとできた詞の方がヒットする。あれこれいじって時間のかかった詞は売れない。

Q8:他の作品でも何かエピソードがあれば聞かせてください。

人間ドックに行って、胃がんの疑いがあるって言われ、根が小心者だから、「こんなに頑張ってきたのにがんかよ」ってすっかり落ち込んじゃってね。まだ疑いの段階なのに(笑)。「やっぱり健康が一番だよな」とか、急に殊勝なことを考えたりした。で、このあたりから作家モードのスイッチが入って、「あれ、そうか、バブルも弾けて、お金じゃなく健康第一、健康なら何とかやっていけるしって、世の多くの人が実感してるんじゃないの。お、これを詞にしたらウケるな」って。でも「健康」って言葉はタイトルには不向き。で、それに代わる言葉「スタミナ」を思いついた。その後、ナンちゃん(南原清隆)に、そのテーマを話したところ乗ってくれて、ブラックビスケッツの『スタミナ』っていう詞が生まれた。だから物書きって、我が身に起きた物事でさえ他人事というか、俯瞰で見られないとダメなのかもね。

Q9:作詞以外にも多くの仕事をされていますが、その原動力は何でしょう?

僕は生来の怠け者なので、できれば楽して暮らしていきたい。これが人生最大の目標だった(笑)。でも、意に反して慌ただしい人生になってる。傍から見てるとどう映るかは分からないけど、僕の場合、これがしたいと強く望んでいろんなことをしてきたわけじゃなく、いろんなことが向こうからやってくる感じなんだよね。きっと神様が「こいつを野放しにすると怠けて働かないから」ってことで、次々に試練を与えているんじゃないかって気がする(笑)。で、取り組んでしまうと、褒められたいという性格なので、イヤでも頑張ってみる。それで、そこそここなしてしまうので、自称「究極の器用貧乏王」に。表向きの座右の銘は「継続は力なり」なんだけど、裏座右の銘は「棚からぼた餅」(笑)。でも、僕は知ってる、ぼた餅は落ちる相手を選ぶって。つまり、やっぱり残念ながら努力は必要。しかも正しい努力をしないと、ぼた餅は落ちてきてくれないんだよね。

撮影協力:細田工務店 浜田山モデルハウス

プロフィール

作詞家:森 浩美さん

放送作家を経て作詞家。86年、荻野目洋子「Dance Beatは夜明けまで」がベストテン作品に。以降、田原俊彦「抱きしめてTonight」、森川由加里「SHOW ME」、SMAP「青いイナズマ」「Shake」「ダイナマイト」、ブラックビスケッツ「タイミング」等のミリオンセラーがあり、作品総数約700曲。
また、漫画の原作が縁で日本ドッジボール協会設立の発起人になり、現副会長も務める。朗読と芝居を融合させた「家族草子」主宰。

「コミュかる」は以下の杉並区役所公式ホームページでお読みいただけます。
https://www.city.suginami.tokyo.jp/kusei/bunka/johoshi/1094866.html外部リンク