スギナミ・ウェブ・ミュージアム

企画展:阿佐ヶ谷住宅の記憶展

津田千鶴さん

「美しい団地」を生んだ人生哲学

1967年の春だったと思う。両親が同じ区内にあった住まいを建て替えることにし、知人のつてで、阿佐ヶ谷の公団住宅に仮住まいを得た。ほんの夏までだったと思う。戸建てしか念頭にない両親にとっては一刻も早く新居に引っ越したかったろうが、私たち子供は「アパート」とか「団地」が珍しく、ワクワクしていた。そして、その住まいは私にとって、以後「住む」ということを考えさせるものとなった。短期間だったし、子供も大きいし隣近所と密なお付き合いをする両親でもなかったから、今謳われる「コミュニティ」などは記憶にない。しかし、この住まいはなんとも言えない魅力があった。

玄関から入ると短い木の廊下があり、暗い。灯りは、長い紐を引っ張って天井近くのスイッチをカチッとさせる古めかしい方式。一階の手前は台所やお風呂、奥に木床のリビングがあった。掃き出し窓の向こうに住まいの幅に庭が開けていて、それぞれのお宅で花を咲かせていたし、物干しもあった。そしてさらに向こうに、その庭に入れる入り口があって、その先はこの団地内をうねうねと通る広い道。その向こうに別棟の玄関が並ぶのが見える。全く同じ間取りの住まいが一棟に四、五軒くっついているテラスハウス方式だった。2階は階段の両脇に六畳と四畳半の和室があり、寝室や子供の部屋になった。

質素で、どうということのない作りである。しかし、過不足がない。居間から目線を遮ることなく庭や、小径がみえ、その小径の両脇にも緑がある。こう作ろうとしてもなかなかこうはいかない自然な心地よさが計算されていた。住むということへの「哲学」があり、住まいの価値は材料が高価とか、デザインが目立つかなどは関係ないと、住む人に語りかけてくるようだった。長じて、この名もない住宅のことが気になり調べてみて、津端修一氏のことを知った。戦後間もない時期にこんなに垢抜けた思想で、庶民の住まいを考えた若い建築家たちがいたこと、そしてそういう思想は、効率や実用本位の波にあっという間に消し去られてしまったことを知った。しかし、そうした人たちがいたこと、そういう住まいがあったことは、近年の日本人の住むということへの眼差しが決して捨てたものではなかったのだと、とても嬉しい気持ちになった。